第3回ひら怪「田中河内介の怪談」その1

第3回のひら怪で盛り上がった「田中河内介の怪談」ですが、詳細を聞きたかったというご意見をいただきました。
数回に分けてご紹介いたします!
(レジメ希望の方はメールにてご連絡いただければデータをお送りいたします)

前回の例会の最後に、メンバーから「田中河内介について知りたい」という声が上がりました。
河内介……何かで読んだなぁ、どんな話だっけ???
とその時点ではピンとこなかったので、「次回に」と約束。
帰って調べてみて「ああ、『文藝怪談実話 文豪怪談傑作選特別篇』(東雅夫編 ちくま文庫)に載ってた、例の〈語ると死ぬ話〉かぁ!」と膝を打ちました。

そして4月24日の第3回例会で「田中河内介の怪談」豆知識を、例によってざっくりとお話ししました。

「田中河内介の怪談」とは、田中河内介という勤王の志士の最期について語ると死ぬ、もしくはよくないことが起こると噂されている話です。

この噂が立つようになった原点は、大正3年(1914)7月12日に開催された怪談会です。
会の発起人は泉鏡花、場所は東京・京橋の画博堂という美術商の3階(2階という説も)。
新聞広告も出したので、60人以上が集まる盛会となりました。
参加したのは岩村透男男爵(美術家)、岡田三郎助画伯・八千代夫人、辻永、長谷川時雨女史、柳川春葉 泉鏡花、市川左團次、市川猿之助、松本幸四郎、河合武雄、喜多村緑郎、吉井勇、長田秀雄・幹彦兄弟、谷崎潤一郎、岡本綺堂、坂本紅蓮洞、松山省三、鈴木鼓村、石川幸三郎、鹿塩秋菊、平岡厳八郎という錚々たる面々です。

ここに一人の男が現れます。
青年だという説もありますが、どうも年配の男性だったようです。
萬(よろず)朝報の記者だと本人が自己紹介しています。

会の参加者は、最低一話は語らなければならないというルールでした。
会が終わりに近づいた頃、男が田中河内介の最期について語り始めるのですが、ちょっと話せばまた最初に戻り、また話しだしては最初に戻り、を繰り返して、なかなか先に進みません。
このとき話した内容も、聞いた人によってかなり違うのですが、話の冒頭部分を何度も繰り返すという点では同じです。
やがて男はばったりとその場に倒れ伏してしまいます。
見ると死んでいた、とする説もあります。
明け方に家人が迎えにきて自宅に連れ帰り、病院に運ぶ前に亡くなった、という説もあります。
自宅に連れ帰られ、病院に行ったが、亡くなったという説。
画博堂の店主が車で家に送り、その後病院に連れていったが亡くなった、という説。
どうも病院で亡くなったという説が強いようです。
 
このときの様子を、東京日日新聞(泉鏡花が怪談会で恐怖を煽るしつらえをしない理由として)や長田幹彦(参加者)、鈴木鼓村(参加者)、徳川夢声(伝聞)、池田弥三郎(父金太郎の談)らが書き記しています。
全部『文豪怪談傑作選特別篇 文藝怪談実話』(東雅夫編 ちくま文庫)で読めます。
これが、みな少しずつ微妙に違う。事実はどうだったのか、という謎が好奇心をそそります。
また、それぞれに後日談が書かれています。

ただ、この会の以前から、河内介の最期について語ることはタブーとする空気があったようです(特に薩摩藩士周辺では)。
河内介と息子が惨殺されて以降、その海域近くを航行するときには、薩摩人は息を潜め、口をきかなかったということです。
それでも無念の最期、凄惨な最期であったという噂は、巷間で秘めやかに語り継がれました。

大久保利通が殺されたのは河内介のタタリであるとする話(池田彌三郎)。
徳川夢声を訪ねてきたS女の家にまつわる話(河内介殺害下手人の一人――自称――である祖父のせいで、内子の男子がみな早世するといい、S女も体が弱い)。
霊媒師の話では、幼い息子が水死したのは河内介のタタリである、などの話もあります。

また翌年2月に、会場である画博堂の主人夫婦がスペイン風邪で亡くなっています。

こうした「私だけが知っている。実はあのあとこんなことが……」と新たに派生してくる怪談(後日談)が、怪談会での事件を一層怪談たらしめていきます。
この怪談が今なお「生きて」いる(有効である)ということが、ひとつの肝であるようです。タタリは今もなお続いていて、この話に関わった人に怪異をもたらすのだという恐怖が、100年経った今でも人々の心を捉えるのでしょう。


では、田中河内介というのは、一体どういう人物だったのか?

――次の記事に続きます。(三輪チサ)

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