第3回ひら怪「田中河内介の怪談」その2

さて、前回途中になっていました「田中河内介の怪談」の続きです。

そもそも田中河内介というのは、どういう人物だったのかを、ザックリとご説明します。
大変大まかですので、幕末好きの方にはごめんなさい。
付け焼刃の知識ですので、間違っている部分がありましたら、ご指摘いただけるとありがたいです。

田中河内介は、尊王攘夷運動の核となる人物の一人です。
文化12(1815)年、但馬国出石(現兵庫県豊岡市香住)の医者の家に生まれました。
幼名は賢次郎。4人兄弟の次男で、兄弟3人はみな医者になっています。
幼いころから兄弟より抜きんでて秀で、儒学を学ぶようになった河内介は、天保6年21歳で京都に出ます。

私塾を開き勉学に励んでいましたが、25歳のときに公家中山忠能(ただやす)に仕えます。
同家世臣である諸大夫田中近江介の養子となり、後に養父より諸大夫を引き継いで、従六位、河内介に叙されます。
1852年、宮中に出仕していた忠能の次女慶子(よしこ)が祐宮(さちのみや)を中山邸で出産。
河内介は御産殿を建て、生れた祐宮をおぶって養育係を務めました。
1860(万延元)年、祐宮が皇居に入り、親王宣下(1860年)を受けます。
同年、桜田門外の変が起こります。
河内介は職を辞し、中山邸より出て川端丸太町に移住、後に大坂に移り住みます。

文久2(1862)年、河内介らは島津久光の上洛に合わせ、和宮降嫁を仕切った京都所司代・酒井忠義と関白・九条尚忠の暗殺を企てます。
4月23日、伏見の寺田屋(薩摩藩の定宿)に集結して謀議していたところ、計画の噂を聞いた久光が鎮撫使(薩摩藩士)を派遣します。応じなければ斬るもやむなしと命を受けていた鎮撫使は、志士たちと激しく斬り合い、8名が命を落とします(後に1名が切腹)。これが寺田屋騒動です。
逃亡した者もいましたが、投降した志士たちはそれぞれの藩に引き渡されました。
河内介は浪人だったため、薩摩に送られることになりました。
大坂から息子左馬介とともに出航したのですが、5月9日夜、二人とも船上で薩摩藩士に切り殺され、海に投げ捨てられました。
二人の遺体は翌朝小豆島に流れ着きます(漂着した福田に現在顕彰碑が立っています)。

河内介殺害の下手人については諸説あり、自称する(武勇伝として自ら吹聴する)人も少なからずいたようです。
巷間では「寺田屋で生き残った薩摩藩士による同士討ち」と認識され、藩命で口外を禁じているのだと噂されました。
以後長く、田中河内介の最期について語ることは「タブー」とされていきます。

一方で、河内介親子の死亡が明らかになった直後より、祟りの噂が囁かれ始めました。
事件の八ヵ月後、大久保利通らを載せた島津御用船が、明石沖で暗礁に乗り上げました。
永平丸は五ヶ月前に購入したての洋船でしたが、どうしても動かすことができず、後日爆破されました。
薩摩藩内では、難破は河内介の祟りだと騒ぎになりました。
薩摩人は、この海域を通るときには身を縮め息を殺し、心中に念仏を唱えたそうです。

また、河内介親子殺害に加担した者に、正気を失う者が相次いでいるという噂も立ちました。
豊田小八郎氏は、寺田屋騒動の同志(が別の同志から聞いた話)の話として、下手人(また別の寺田屋同志)が「後に発狂し、殺害時の様子を身振り手真似していた」と書いています。(『田中河内介伝』より)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781665
下手人を見舞った同志はその様を目の当たりにし、懺悔を聞いたとのことです。
薩摩人は祟りを恐れ、河内介を祀るものもあったと書いています。

河内介の殺害については、藩主久光の直命であったという説、大久保利通の命という説があります。
後者に関しては、明治天皇が宴席で河内介の消息を問うた際、黒田清隆が大久保に「お前、知っているだろう」とわざと水を向けていやがらせをしたそうです(『異説田中河内介』池田彌三郎)。
後に大久保が紀尾井坂で横死したのも、河内介の祟りだと噂されました。
こうして、藩の事情による「タブー」に、祟りへの恐怖心が加わり、河内介の最期について語ることがますます憚られていくようになります。

河内介の最期について記したものに、『王政復古義挙録』(小河一敏)があります。
おそらくこの件について最も早い時期に書かれた(明治19年8月刊行)ものだと思われます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772557
船上で某が河内介に「河内介親子を殺せと官吏の内命を受けている」と告げたところ、河内介は神色自若として「そうだろうと思っていた。疾く殺せ」と襟をひらき胸を明け両手を差し上げたので、人々はためらったが、命令に背くと己の身が危ないと思い定め、直ちに刺殺した。
その時に河内介が詠んだ辞世の句が

  ながらへてかわらぬ月を見るよりも死して払はん世々の浮雲

であった。(上『録』より)

――立派な最期であったと思われます。

河内介親子の遺体が流れ着いた小豆島の福田では、「田中河内介顕彰会」が毎年法要を行っておられます。
今年5月1日には、第155回忌法要が福田の雲海寺において開催されました。

異説中の異説として、河内介の息子・左馬介が生きていたという話もあります。
その末裔が元姫路市長だということです。(『ハマナデシコの妻たち』田中澄子)

河内介ら志士たちの活躍があり、その死があり、明治維新を経て、平成の世がある。
今を生きる私たちは、心して「田中河内介の最期」を語り継いでいきたいものです。
(三輪チサ)
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